はじめまして。旦那です。
突然ですが、僕の理想の生き方を道で例えると、”後から来る人の為に草の生い茂った知らない道を進んで新しい道を作っていくような人生を歩みたい”と考えています。
昭和の時代、それを一人黙々とやっていたのがこのみのおじいちゃんでした。
彼女のおじいさんはアメリカの占領下の頃から沖縄の医療現場で活躍していた、超スゴイ人だったのです。
おじいちゃんがつけていた自分史を読んでみたのですが、その生き方は壮絶で充実した毎日が淡々と描かれていました。
一人でも多くの方におじいちゃんの生き様を知ってほしいと思い、この場を借りました。
※このみはおじいちゃんの自分史をまだ読んでいませんし、これからも読まないと思います笑
おじいちゃんの履歴書
昭和33年 熊本大学医学部卒業
昭和34年 文部教官熊本大学助手(医学部放射線医学教室)
昭和34年 医師免許公布
昭和36年 那覇市大浜外科医院勤務
昭和40年 社団法人沖縄臨床センタ検査癌センター勤務
昭和42年 熊本大学講師(同大学付属エックス線技術技師学校)に併任
昭和44年 社団法人日本医学放射線学会より放射線科専門医の認定をうける
昭和44年 社団法人沖縄臨床検査センター診療部長
昭和46年 那覇市医師会看護専門学校講師
昭和46年 那覇市医師会臨床検査センター所長
昭和47年 保険医登録(沖縄の日本復帰)
昭和48年 社団法人那覇市医師会理事
昭和56年 科学技術庁より原子力モニターを委嘱される
昭和60年 社団法人日本医師会より認定産業医の証を受ける
昭和62年 那覇市医師会長表彰状
昭和63年 NHK沖縄放送局長感謝状
平成 3年 社団法人日本医師会より認定健康スポーツ医の証を受ける
平成 6年 沖縄県医師会長表彰状 沖縄県医師会医事功労者表彰
平成10年 日本公衆衛生協会長表彰 公衆衛生事業功労者表彰
平成10年 沖縄県知事表彰状 沖縄県医師会医事功労者表彰状
平成10年 社団法人那覇市医師会臨床センター所長定年退職(名誉所長 常勤嘱託医)
平成12年 社団法人那覇市医師会生活習慣病検診センター名誉所長 非常勤嘱託医
平成12年 厚生大臣表彰状 公衆衛生事業功労者
平成15年 那覇市医師会那覇看護専門学校長表彰状
おじいちゃん史
上のおじいちゃんの履歴書を見ていただければわかると思いますが、放射線で癌を治療する外科のお医者さんです。
それも、第二次世界大戦後、沖縄県がまだアメリカ領沖縄だった頃から熊本から赴任して当時最先端の放射線治療を沖縄で行うというプロジェクトに参画した医師の一人でした。
ひめゆりの塔に行き戦前戦後の沖縄史を知れば、より凄さが分かると思います。
というのも、つい15年前まで沖縄では地面に穴を堀り、そこに木の板を敷いただけの簡易ベッドに人を寝かせ、学生達が傷ついた兵の看護をする場所が病院と呼ばれていました。
その後15年でアメリカ占領下にあった沖縄の民間医療が急速に発達したとも考え難く、人・機材などのリソースも足りていなかったはずで、そこに本土から癌を治療する最先端の医療を確立しようと考えた彼等チームの前途が多難であった事は容易に想像がつきます。
それをやり遂げ、今の沖縄の医療があるのは一重におじいちゃんのおかげではないか、と僕は思いました。
自分史には、おじいちゃんが生まれてから現在に至るまでの生活の記録が残されており、無知な僕にも読みやすいものでした。
読んでいると彼はみなさんが想像するその5倍は真面目な人であるということがわかり、ちょっと笑えてしまう部分もあったりしました。
本当は一言一句全て書き残したいのだけれども、早くても読み終わるのに2時間程かかってしまいそうな量なので、今回は印象に残った”幼少期”部分だけ記載していきます。
おじいちゃん幼少期の記録
幼少時の記録
昭和8年(1933) 10月17日長野市の赤十字病院で生まれた。
父は長野県庁の衛生課勤めだった。ミルク栄養だった。歩きだすのが遅く2歳9か月であった。(これは病気 の為だったが気づかれず無能力弱い子扱いにされていた。詳細は後記する。) 食べるのが遅く少食で苦労したという。
3歳の時母と一緒にキリスト教の集会所へついて行き、迷子になり大騒ぎになったが番地を言ったのですぐに連絡がついたという。この齢で番地が言えるのはすごいと変なところで才能が認められたようだ。
4歳で保育園に行くようになったが体が弱く一緒に遊べないので1か月でやめた。雪の多い長野ではしもやけで指が腫れて潰瘍になり大変だった。雪掻き遊びと善光寺散歩の記憶がある。リンゴ園に行ったのも記憶がある。 妹と遊んだことは特に覚えていない。
4歳の時父が秋田県庁に転勤して畑の多い住宅地にいたが8月の暑いとき野原で遊んでいて脚に怪我をして 血が出たので家へ戻ったら丁度弟が生まれて産婆さんがいたので傷の手当をして貰ったがこの時の傷跡は3 0才頃もはっきり残っていたので相当の大怪我だったと思う。
1年で父が県庁を辞めて東京へ転居した。 杉並区和田本町というところで畑や森があって市電の停留所山谷まで 10分ほど歩き終点が新宿だった。時々買い物に連れて行ってもらい、ポパイの映画を見たり中村屋のカレーライスを食べさせてもらった。上野の動物園で象やキリンを見て驚いた覚えがある。仕事は休業していて1年足らずで母の兄のいる大島に転居した。母方の伯父は明治大学を卒業後大島の娘が好きになり結婚移住し自然を相手に差木地村で一生を終えたという少し変わった人生を送った人だったが、母は駄目な兄貴の監視を頼まれ苦労したなどと言っていた。大島では父は魚釣りのために岩場へよく出かけていた。成果は殆んどなく、母は餌をやりに行っているようなものだと笑っていた。魚好きだったようで波浮の港の料理屋へ握り寿司を食べに行ったことも覚えている。危険な三原山にはいかなかった。牛乳を買いに近くの農家へ行き一升瓶で買ってきていた。椿の実が子供の遊び道具になっていたが椿油は特産品として化粧用だけでなく食用にも良く使っていた。水道や井戸がなく、瓦屋根に降った雨水を樋でつないで水槽に入れるので大雨が降るとあわてて樋をつなぐのを手伝わされたことはよく覚えている。桜の花が散ると後に熟れると黒い小さなさくらんぼができ子供のおやつになっていた。昭和15年4月差木地小学校に入学したがわずか3か月1学期で転校したのであまり良く覚えていない。
小学校時代
一年生の夏に波浮の港から船に乗って東京の怜巌島の埠頭に着き東京駅から汽車に乗って下関へ向かった。当時は一等車から三等車まであり、白、青、赤の鮮やかな帯が窓の下にひかれていて目立ったのが印象に残っているが何等車に乗ったかは覚えていない。まだ関門トンネルはなく船に乗り換えて門司港で汽車を乗り換えて長崎へ向かった。長崎で高台に有った父の姉の所に一泊して茂木から船で富岡港に着いた。一家5人の大旅行だったはずだが、細かいことは覚えていない。
志岐では父の兄が開業医として働いていた。父方の伯父は二男だが長男が幼いころにジフテリアに罹り医者だった祖父が忙しいので診断が遅れて気管切開で一命は取り留めたが声が出なくなり、後を継いで医者になるのをあきらめて二男に譲ったということである。このことは祖父悪の一生の後悔であったと父がよく話していた。開業していた診療所は、その前に開業していて亡くなった医院の空き家を借りたもので、入院室もあり我々はそこへ部屋をとって暮らすことになった。志岐小学校へ転校したが天草弁が判らないので今でいうイジメに会ったがそんなにしつこいものではなかった。父方の伯父の所の娘たちが使ったというオルガンがあったのでいたずらで弾いていたが学芸会で発表することになりずいぶん珍しがられた。
父方の伯父は明治時代の古い熊本医学校の卒業生で成績抜群のため授業料免除で恩賜の時計(天皇のご褒美)を貰ったということで、その後も熊本医学校の大先輩、北里柴三郎の東大伝染病研究所で結核菌の研究をやり、医学博士の学位を受けたそうでその業績で若くして山梨県の衛生課長になったそうである。当時、医学分野は内務部衛生課というのが最高の部署だったので大変な出世だったという。その後は山口県に移動したが、本籍地が無医村になっていたので村長がわざわざ山口まで頼みに来て志岐へ戻って開業することになった。そのようなこともあって医療は勿論細かく終日頑張っていたが、村ではかなり気を遣っていたようで往診に出かけるときは高級な馬車や山道では人力車、籠で送迎していた。偉い人はすごいなーと子供心に感心して見ていた。遅い夕食で子供が寄っていくといろいろ話しかけてくれ、嫌な人ではなかったが何となく怖い感じで近寄りがたい気がした。父も大学卒業後は伝染病研究所(その後東大から離れて北里研究所、現在は北里大学)で細菌学を中心に研究し ていたが山梨県に移った父方の伯父に誘われて山梨県に就職した。当時は公務員には格があって父は「俺は勅任官(天 皇が任命する最高の官吏)だ」と自慢していた。これで正七位という勲位を貰っていたがこんなことはあまり話したことはなかった。後に軍医少尉で勲八等ももらった。現在でいえば正七位勲八等という勲位を持っていたことになるが記録はどこにもないので重要な情報かも知れない。母と結婚したのは山梨県で父方の伯父の関係があった為である。父方の伯父の指導で怒られながら開業医の実習を夜遅くまでやっていた父は隣町の富岡で開業することになり僕は小学2年から富岡小学校に転校することになった。
志岐では本家が自転車屋をやっていた。今では普通の仕事に見えるが、明治の頃には自転車は最先端 の道具で今の自動車産業と同じだった。祖父が開業していたのでずいぶん広いし池付きの中庭に別荘のような部屋も有ったり、大きな仏壇に祖先が祭られていたりして子供なりに本家の格式を強く感じたものだが細かいことは理解できないのでよく覚えていない。古い道具や掛け軸なども沢山あった。
近くに港があり志岐川の海への出口だったので川岸でよく水遊びをした。ある夏に妹と弟の三人で遊んでいたら川岸の眼の前3メートルのところで弟が仰向けにゆっくり流れて行くのに気付いた。全く泳げなかったが これは大変だと服を着たまま胸の深さ位の所で引き寄せて事なきを得たが一歩間違えば今の我々は存在しなか ったわけで、人生いつ何が起こるかわからないものだがこの時にはあまり感動はなかった。親から怒られずに済んだのが良かったぐらいに思っていた。妹もホッとしたことだろう。
富岡国民学校(小学校)時代(太平洋戦争のはじまり)
昭和15年の暮れに父は隣町の富岡で独立して開業医となった。ちょっと裏道になった新町に住宅を借りた。僕はすぐには転校せず1年生の3学期は近くの富岡郵便局のバス停からバスに乗って志岐小学校に通った。慣れないことなので大変気を使ったが、運転手さんが気をつけてくれて何とか毎日通学できた。バスに乗車する練習に役立った。2年生の新学期からは2丁目にあった富岡小学校に転校した。2kmぐらいあったので歩いて通学した。言葉の違いと見慣れない子が来たということで珍しがられて大事にしてくれる子もいたがいじめの子もいた。ひどいものではなかったがランドセルを取り上げられたり、冷やかしをしたりする子がいたが、一方では上級生がいじめを監視してくれていじめた子が逆にいじめられることになることもあった。 別に自殺したくなるような落ち込んだ気分になることはなかった。2年生の12月8日に大東和戦争(第二次世界大戦・真珠湾攻撃)が始まった。まだ詳しい情勢が理解できないので大事件だとは思わなかったが、12月8 日は忘れられない日である。数日前から妹が発熱下痢などで調子が悪かった。当日意識不明になって危険な状 態になり父が「妹が危ないから今日は学校を休め」と言った。当時は電話も普及していなかったので無届欠席になったが後日学校では僕が病気で休んだことになっていたのは不満だった。僕自身が風邪を引いてよく休むことがあった為である。妹は当時疫痢(赤痢の変形とされていた)と言って子供が亡くなる重要な病気で父もよその子を患者として診て来たので覚悟したのだと思う。母と一緒に徹夜で看病したりしていたので僕も心配で一睡もできなかった。幸いなことに翌日から急速に回復して後には笑い話になったが、戦争で世の中が大きく変わる始まりの日の思い出として深く認識している。戦時体制に変わり、学校も国民学校と変更された。翌年17年は勝利の景気のいい話が多かったので学校の授業も大きな変化はなかった。
2年生では不慣れ不安定だったが3年生になると友達もできて藪や畑の多い裏山や富岡神社、東の浜、西の海な どが遊び場となった。東の浜は遠浅の砂地で引き潮の時間にアサリやマテガイを採ったが養殖ではなかった自然の産物だったので1日3時間で5~6個しか採れずおかずの足しにもならないことが多かった。西の海はごつごつした岩場で小さな巻貝やエビがとれたが沖に出ないと本格的なものはとれずおかずの役にはならなかった。季節によってはアオサ、ワカメ、ヒジキなど子供でも収穫できた。小さな魚、特にフグはよく捕まえたが遊び道具で、持ち帰ることはなかった。東支那海に面した西の海は塩水を汲みにバケツを持って行っていたが台風の時など大波で怖かった。遭難事故も時々あった。海遊びでは帰りが遅くなって母を心配させた事件があったが、妹の自分史に書かれているので省略する。東の浜では鉄で切れ込みを入れてマテガイの穴を見つけここに塩を入れると貝が飛び出してくるのでタイミングよく掴み取る面白い方法を教えてもらったが慣れたものは20匹も採るのにこちらはやっと1匹しか採れないので悔しい思いだった。富岡神社は長崎の諏訪神社のお祭りと同じで10月9日には、子供たちにもみこしを担ぐのが割り当てられたりしたが、体力のない(足が不自由な)僕にはあまり嬉しいことではなかった。
小学校4年生からは学級委員長という役割があって、担任が指名することになっていたが予想もしていなかった僕が任命された。朝礼の時には担当の委員長が全体を指揮して校長の話を聞いたり、会の進行を責任もってやる役割であったが、5年や6年の先輩委員長は堂々としていて羨ましい気分になった。逆に言えば劣等感も感じたようだったが、しばらく経つと自信が出てきて威張って号令するようになった。他人の上に立つ役割を経験出来てよかったと思う。4年の時から戦争が激しくなり男性教員は出征(兵隊になる)が多くなり我が担任もいなくなった。教員の補充がなく自習も多かったが、委員長が教えろと言われて国語や算数を教えたこともあった。輸血に備えて血液型の勉強もあり、父が資料をくれたので話をしたら校長からよく勉強しているとほめられた。その他気象観測の仕事も有って、日曜に学校へ行って気温降水量風速の測定をやっていた。今思えば、科学的な思考力や実験能力を高めるのに役立ったと思う。5年生ではますます戦況は激しく授業も農家の手伝いなどが増えたが田舎の富岡では不安は感じなかった。どこでも若い男性は出征して行く人が多かった。父は40歳だったので出征はな いだろうと予想していた。富岡にただ1か所の開業医だったのでとても忙しく寒い夜中や嵐の中を往診に自転車で出かけていた。僕も心配で父が帰るのを眠らず待っていたこともあったが、開業医の厳しさをみて将来あまりやりたくない仕事のような気持ちにもなった。父は「俺が診なければ終わりだ」と言って責任を持って地域の医療に頑張っていたようだ。
僕は将来何になるかなどとはあまり関心がなく、本社から取り寄せて自然科学雑誌(子供の科学)を読んでいたがこれに天体の事、火星金星日食月食などのことが解説されレンズ付きの望遠鏡の付録もあったので夜屋根に上がって天体観測をやるのは楽しかった。この時の知識は今でも大変役に立っている。将来は天文学者になりたいと思った。父はそれを聞いて跡継ぎの医者にならないのかとさびしそうな顔をしていたようだった。5年生の終わり1月に父にも召集令状が届き出征することになった。沢山あることだったので人と同じだと思ってあまり深く考えずに桟橋から船で茂木へ向かった父を沢山の人たちと見送った。母はさぞかし心配で悲しかったと思うが子供だった僕にはあまり心配はなかった。
6年生になると全国各地の都市がB29という大型爆撃機で爆撃され富岡でも小型機の機銃照射でけが人が出ることがあった。危険を避けるため学校へ全員集まるのは禁止され集落単位で分教場というものが作られた。閉鎖していた松田病院の建物が割り当てられた。生徒たちの勉強は殆んどなく、集合すると畑の仕事に駆り出された。担任のN先生は父の小学校の同期生だったが僕の足の悪いことを父から聞いていたので考慮して部屋に残って連絡係ということにしてくれて作業にはいかないで留守番をすることになった。8月9日にかなり強いイナズマが感じられたが数分後に激しい地震のような地響きと揺れがあったのでただ事ではないと裏にあった防空壕へ向かった。途中西の方向にピンク色のもくもくと動く入道雲が見えていたので不思議に思ったが、これが長崎の原爆投下だったのである。ピンクの入道雲を見た人は少ないと思うので貴重な体験談になる。夕方風呂屋に行ったら長崎に新型爆弾が落ちて焼け野原になって大変だという話を聞いた。これで終戦となった。昭和天皇のラジオ放送は電波の状態が悪く全く聞こえなかった。
父親の思い出
父のことでちょっと記録しておきたいことがある。昭和18年の暮れに満州の錦州医科大学の細菌学教授に就任する話があった。父の大学の1年後輩で同じ下宿に居て後に大学で細菌学の助教授だったM氏から推薦されたためである。親戚などといろいろ相談した結果、断ることになったが学問熱心だった父はかなり乗り気だったという印象がある。しかし、もし満洲へ行っていたら今の我々は無い筈だ。運命を感じる。余談だがM先生は後に熊大細菌学教授になり、僕が沖縄に赴任したO病院のO先生(後に県医師会長、参議院議員) はM家に下宿して研究したということである。僕の細菌学講義はM教授がセービンワクチン(僕にも関 係深いポリオの生ワクチン・現在は使われていない。当時ポリオは大流行して大変な問題だった)研究でモスクワに留学中だったので受けていなかったが、O先生が招聘して沖縄に来た時に挨拶に行ったらわざわざ奥さんまで呼んで特に気を遣ってくれて沖縄のために頑張れと論された。その後熊大学長になられた。人の縁のつながりの不思議さを感じる話として記録する。
父は終戦後意外に早く10月に帰宅した。入隊直後は中国の南京付近に居たらしいが沖縄も占領されたし朝鮮が危ないということで釜山の近くに終戦直前の7月に移動になったそうでこのため終戦直後の中国満州の大混乱に巻き込まれず一番早く帰国できたということである。運命を感じる。すぐに開業し大変忙しくなった。
11月に米の配給に行き帰りに胸の痛みを感じた。肋膜炎が疑われ右胸に胸水がたまっているのが分かった。結核性肋膜炎である。当時はよくある病気だった。すぐに学校を休み、大気、安静、栄養で回復を待った。当時は結核の薬はなかったので自然回復を祈る他なかった。クラスでは数人の中学受験者の受験準備の補習授業も行われていたが受験は無理として無視されていた。1月になると痛みも微熱もなくなり元気が出てきた学校へ行ってもいいとされて受験が問題になって来た。担任が願書締め切りまであと2日あるので急いで書類を作ろうということになった。受験勉強は二の次だったが他の子と同じ旅館に宿泊して受験した。僕も入れて3人合格した。これで小学校を卒業して熊本県立天草中学校に入学した。
欄外の話で書いておきたいことがある。借金取りをやった事である。その頃の医療費は盆と正月の掛け払いが多かった。従兄の人たちが手伝ってやってくれていたが忙しくて出来なくなった。そこで僕がやることになった。
「まあ、おぼっちゃんがわざわざ来てくれて申し訳ありません」とお菓子をくれる人もいたが「息子を使ってまで借金を取り立てたいのか」という嫌味を言う人もあり世間の厳しさを勉強する機会になった。保険のなかった時代の医療費を払うのは所得の低い人は大変だったのだと思うが、開業を止めた時数百万円の未収金を残してきたという。家一軒分にあたる大きな金額である。あまり金融金儲けのことは関心のなかった父であった。
先天的身体障害ついて
運動について書いておきたいことがある。たびたび書くが僕は左足が短いという身体障害の記録が学籍簿に引き継ぎで記載されていたようで、運動能力が低いことは担任の教師は認識していたので走るのが遅い、鉄棒、跳箱、木登りなどの能力の低いことは認容されていて怒られることも差別されることもなかった。戦時体制の教育の中では兵隊になることが重要だったので差別される可能性は高かったのだろうが一方では学問技術も大事なので僕が成績優秀だったことがいじめに繋がったりしなかった理由だと思う。いやだったのは学校近くの西の海の高さ3メートルの堤防を砂浜に飛び降りるのを度々やらされたがこわくて降りられず無理して飛び降りたら捻挫して怪我をしたりで本当に嫌な授業だった。足の麻痺があったのでジャンプがうまく出来ないのがその理由だったのだが、麻痺があるということは僕自身は勿論、両親も全く気付いていなかったので仕方ない。運動で嬉しかったことが2つほどある。1つはグループでお手玉を目標に当てると先へ進むというゲームがあり、一人3個を持っていた。焦って投げるので外れて手持ちのお手玉が無くなって負けるチームが多かった。目標にある紙に自分の名前を書いたら先へ進むというルールもあったが、僕の名前はとても字数が多いので一番後ろになっていたが、お手玉を使い果たしたチームが多く、お手玉を投げる機会が少なかった僕が1個だけ持っていてみんなの注目の中で目標に当てたので優勝したということがあった。運動会で優勝したのはこれがただ1回だけで嬉しい思い出である。このゲームがあると僕がエリート選手にされていい気分だった。もう1つは草野球でピンチヒッターにされてあきらめの気持ちで速球投手の球を目をつぶってバットを振ったら芯にあたりホームランとなって試合に勝ったことがあった。これも運動が全くダメだった僕には忘れられない嬉しい思い出である。
中学時代(太平洋戦争後)
中学に入学したが戦後第一回の入学生で世の中大混乱、占領政策で大転換という時代だったので苦しいことが一杯あった。教科書はすべて改変されたが特に歴史社会の科目は軍国主義から民主主義に変わったため教科が無くなった。今まで習ったことは忘れろと言われた。英語のS先生は最初に発音記号と辞書の使い方を厳しく教えた。非常に役に立つ授業であった。英語は会話が重視されてアメリカ帰りの先輩教員が教えたが文法的には間違いが多く違和感があったが実際のアメリカ人が来た時の会話は見事に進むので驚いた。殆んどの生徒は寄宿舎 (啓明寮)に入居した。バスは1日3回しかなく切符は買えなかったので、月1回位の割で土曜日に貸し切りトラックで都呂々志岐富岡坂瀬川の生徒は団体帰省した。1年の時は成績224人中42番という通知表を貰った記憶がある。
ここで当時の寮生活のことを書こう。木造2階と1階の二棟で20部屋があった。10畳位の部屋に10人入った。狭いので押入れから布団を出したら押入れに布団を敷いて寝るという事だったが最下級生の僕は押入れに寝た。朝昼夜3食の給食があった。分量が少なかったので空腹で大変だった。(食料は配給制で食堂や食品の店はなかったので給食に頼る外なかった。今の世では想像できない事である。夜中に漬物樽から沢庵を盗んで退学になった者もいた。)満州朝鮮からの引揚者が多数入学していたが、都会生活だった彼らは成績も良く活動的だった。上級生による下級生いじめも多かった。布団蒸し、ビンタ、セクハラなどいろいろあった。僕も度々布団蒸しを受けたので嫌になり、考えた。点呼の時間に隠れて出て来なければ責任者である上級生が舎監から怒られることになる。夏休み前の暖かい季節だったので小屋に隠れていたら点呼の終わった後で僕を探す事が命じられて多数のいじめ上級生が僕に「もどってきてくれよー。」と哀れな声で呼びかけたので部屋に戻った。この思い切った行動は当然大きな効果があって2度といじめを受けることが無くなった。弱気だったら自殺などという事になったかもしれない。自殺者も何人か出たが今の世の中では想像できない社会の混乱を寄宿舎生活で体験した。僕の性格には暴力を憎むことが刻み込まれたように思う。2年に上がる時になって新しい学校制度に変わり、義務教育の中学になり高校大学と変化した。そのため下級生は入って来なくなり中学2~3年は最下級生でこき使われ昭和24年に熊本県立天草高等学校に編入された。同時に県立本渡女学校も合併したので女生徒が入ってきて今までとはすっかり雰囲気が変わった。高校になって大学受験者も増えてきたので全校一斉の学力試験があった。成績発表で担任が優秀者の名を呼び上げ、その時「もう一人優秀だったのがいるがだれか解るか」と言って実は僕が4番だと発表した。一番驚いたのが僕だが、皆も驚いたようで、このことがあって僕は成績優秀者と皆が認識するようになり雰囲気が変わった。偶然だったのだが運命を感ずる。3年の時同じ全校試験で2年生だった妹が僕より上位の点数を取ったのでバカにされたこともあった。妹は皆から成績優秀者と認識されていて御茶ノ水大学受験候補者にされていたらしい。「おまえ妹に負けるなよ」などと冷やかされて傷ついた気分になったこともあった。妹は受験する気などなかったらしいが、そんな話はしたことがなかった。また当時進学適性検査という全国共通の受験科目があったがこれも全校で2番という好成績をとったので目を見張らされたが本番の成績は東大受験の最低点数ぐらいでたいしたことはなかった。
高等学校時代
高校1年になった頃から食糧事情も良くなり受験生は寮を出て行く者が増えたが僕はそのまま寮生活を続けた。そのため寮長に任命された。舎監のY先生は僕の苦手の体育の担任でもあったが僕を高く評価してくれ体育実技は1で講義は5、平均3で体育の時間は勝手に好きなことをやってよいと自由にしてくれた。後には縄昇りの国体選手で優勝し有名人になったが生徒にやる気を起こさせる素晴らしい教師であった。ずっと後まで年賀状を交わしご指導いただいたが沖縄に来たので切れてしまった。その他にもぶっきらぼうで変人の物理のK先生もいたが全国発明大会で優勝してびっくりさせられた。卒業時に成績優秀者、学級委員功労者、寮長功労者、皆勤者と僕が一番多くの賞状を貰ったことは嬉しいことだったが素晴らしい先生たちに出会ったことは良かったと思う。
将来何になるかを決めて受験するわけだが、この頃にはやっと父と同じ医者になろうと医学部受験を決めた。医学部は東大受験ほどではなかったがかなり上位の成績でなければ合格は難しい学部であった。妹弟も多いのだから私立、浪人は避けたいという考えで、九大はやめることにし長崎か熊本大にした。祖父は長崎、伯父と父は熊本だったのでどちらかにしたいと決めた。そして当時受験科目は4科目が多かったが8科目受験に代える大学が増えていて熊大はこの時から8科目になった。長崎は4科目だった。あまり不得手の科目のなかった僕は8科目の方が受けやすいと思ったので長崎大はやめて熊大にしたが競争率は長崎8倍、熊本4倍と楽だったように思う。受験でもう一つ書いておきたいことがある。滑り止めで鹿児島県立大学を受験しようと思ったら父がそんな大学は聞いたこともないと嫌がったそうだが、母が費用を工面してくれたそうである。受験費節約のため民宿に泊まって受験したが同室だった福岡修猷館高校のM・T君と気が合い、僕は合格だったが彼は不合格だったので久留米大学に入り遊びに来るよう誘われてその縁が今でも続き、メール友達になっていてお互いに高齢者の悩みを慰め合っている。受験友達が一生の友人になった不思議な縁である。しかも彼は後に長崎大学で学生時代にアミロイド症の患者を発見し、病理学会の有名人になり将来が期待されたが、学者の道を捨てて眼科医になって地域の医療のために福岡市で頑張っている。彼の招待で塗子と一緒に福岡に遊びに行ったがその翌日女医の奥さんが亡くなったという忘れられない過去の思い出がある。運命を感じる。
大学時代
熊大に合格したので黒髪町の旧制五高(重要文化財)の寮に入った。法文学部の敷地にあったが夏目漱石など著名な教授が厳しい授業をした伝統があり、学生にもくせ者の先輩が沢山いたが自主性を重んじていじめなどは全くなく、高校と違った大人の雰囲気で楽しいことが多かった。教授にも優しい人もいたがさすがに学者の風格と権威を感じさせる人が多かった。学問の厳しさを実感した。
忘れられない大きな影響を受けた授業を一つだけ書いておきたい。英語の助教授の授業である。当時小説の原著を読むというのが多かったようだが女流作家ストー夫人のCousinPhilisというのが使われた。翻訳された文庫本がなかった。従って自分で翻訳する以外はない。出席の点検が終わると不定の者に読むように言い、約半ページ分ぐらいで翻訳するように指示される。予習をしていないとうまく翻訳出来ない。バツ印をつけて次へ進む。素晴らしい翻訳をして褒められる者もいたが殆んどは罰点で終わった。最後の10分ぐらいは「俺がやる」と言って聞き取れないほどのスピードで読み翻訳するが、これが実に素晴らしい名文で名作の朗読を聞いているような気分になるものであった。僕も2度ほど当たったことがあったが、厳しく間違いを指摘されて罰点を貰った。試験はやっと合格したが、クラス42名中1 5名が落第し、必須科目なのに再試験もなかったので卒業延期になって人生が狂った者もいた。この英語の授業で適切な日本語翻訳の難しさと文学的表現のバランスが重要だと思い知らされた。後ほどドイツ語、フランス語、 スペイン語、イタリー語などラジオ講座で勉強したが語学勉強の意欲を高められた授業であった。
当時医学部は2年の理科系の教養を終了すると受験できたがこの入学試験は難なく合格した。他大学の受験生も加わって80名の医学部学生となった。当時熊本城内に軍隊の残した仮校舎があって寮もあったので新聞紙と薄板で仕切って二人ずつ入居した。今考えるとプライバシーなど全く無視の生活だったがそんなことは誰も気にせず友達も増えた。最初の授業は解剖学だが授業時間も長く大変な科目であった。学年後半の解剖実習は冷たい風の吹く倉庫であったが、体の実物を切り裂いて細かく見るという作業は医学生になった事を強く実感させられることであった。試験は年末に受けたが世間はクリスマスで浮かれているのに寒い寮の部屋で準備するのは忘れられない苦痛であった。解剖学を合格しないと患者を診察する学科には進めないのでここで退学になった者もいた。 色々な科目が土曜の午後まであった。落第するほど悪い成績の科目はなかった。優秀な成績だったのは産婦人科、 密尿器科で、口頭試問で褒められて真っ先に合格した。法医学も教授の講義が面白く「線路上で溺死することがある」とか「医者は人間を見るのだから乞食の気持ちも大臣の気持ち理解していなくてはいけない」など今でも思い出す言葉がある。卒業後何科になるかを決める時学問的に面白いと思ったが開業医にはなれない法医学は諦めた。産婦人科は口頭試問で子宮がんの事を聞かれて良く勉強していると褒められ真っ先に合格したし教授の本の中にも学生の発言のモデルにされたりしたが入局する気はなかった。その頃開業医のレントゲンの撮影や透視が盛んになり始めた頃で放射線検査や核医学の進歩、がんの放射線治療という高度の専門性と開業医にも必要な技術の両方が研修でき開業医にも勤務医にもなれる放射線科に入局することにした。放射線科の成績はそんなによくはなかったが、、、。
今はないがその頃は卒業後1年のインターン制度があり大学病院で受けたがいろいろな科の患者を診る機会になり放射線科医になった時役に立ったと思う。昭和33年無事卒業、インターンを終えて34年に国家試験を受けて合格し医師免許を受けた。この時、受験票に自分の苗字を略字で書いていたので、「戸籍と違う」と指摘されて訂正の手続きに手間取り、3カ月以上医師免許の取得が遅れたことは今でも痛い経験だ。それ以後役所に提出する書類は厳重に書く癖が抜けないが、最近パソコンになってからはこの癖は大変役立っている。
医局入局
昭和34年4月放射線科医局に入局した。定年間近だったK教授は「天皇」とあだ名の付く人で奥様ともに山口県の士族の家柄だそうで風格のある紳士であったが厳しく医者の心がけを教えられた。昼休みには我々と一緒に食事をしたが中学同期の総理大臣佐藤栄作が博多駅で改札係をしていたことや兄の総理大臣岸信介が秀才だったことなど面白い話をしてくれて怖いながら親しみのある恩師であった。定年直前に代継宮でやった妻との結婚式には仲人をお願いした。5月に国家試験合格後すぐに文部教官熊本大学助手放射線医学教室の辞令を受けたが、同期生で教官になったのは僕だけで羨ましがられた。今と違って専門性の高い放射線科医が如何に少なかったかを意味する。放射線科医でなかったなら沖縄勤務はなかっただろうと運命を感じる。医局で僕の研究テーマはM助教授が担当し、当時水俣病が発見され大学を挙げての研究が進められた。タリウム中毒説もあったのでこの研究実験を始めた。ネズミに放射性タリウムの入った餌を与えて体内分布を測定するのだが β線を出すタリウムの測定は非常に困難だった。スウェーデンから文献を取り寄せる大変な研究になった。パソコン、SNSなどのない時代には航空便で手紙のやり取りをする他なく時間もかかった。もたついているうちに水銀説が確定して、タリウム研究は中止となった。無駄なように思ったが放射性同位元素RIの実技の基本を勉強する基礎となり放射線科専門医の基本になった。K教授定年後はM教授となりRIがメインテーマになった。機会も進歩しシンチグラムという画像も撮れるようになって、甲状腺がんやバセドウ氏病の治療を一手に引き受けるようになった。入局5~6年目には新しく設置されたコバルト60遠隔照射装置の主任となり週1回外来患者の診察も担当した。研究はRIを利用した消化吸収試験の実験をした。学生の講義や沖縄勤務も有ったりして多忙であった。医局長代理で会議に出ると縄張り争いで他の医局長と喧嘩になることもあった。昭和43年8 月3日の朝代継宮の集会所のプロパンガス火事で全焼し自宅に持ち帰って整理していた論文のデータを失った。 その頃、パソコンはなくコピーを作るのは困難だったので大失敗だった。研究をやり直す訳にもいかず、学問の道をあきらめて暖かく誘いを受けた那覇市に転勤することにした。まだ日本復帰は決まっておらず将来は全く保障されていない道であったが沖縄のことが好きであったし何かお役にたちたいという気持ちが決心をさせたと思う。医局員たちが僕の沖縄転出を「無責任の恩知らず」というものと「新生活を選んだことは素晴らしい、頑張れ」という二派に分かれたが、どちらの意見も正しい。自分のことは自分で決めるのが一番いいという事も強く認識した事件であった。沖縄へ家族みんなで移住して数年後(昭和45年)に日本復帰が決まり、昭和47年5月に日本復帰して沖縄県となったので我々の今日がある。なお復帰前は外国人扱いでパスポートが必要だったため本士へ行くとすぐには戻れなくなるため行く事は出来なくなってお付き合いが断絶した人も多かった。(郵便も外国扱いだったので外国郵便の知識がないとはがきも出せない) これ以後のことは那覇市医師会報に記載してあるので記載しない。
まとめ
おじいちゃんの誕生から医者になるまでの軌跡が書かれている項目を抜粋しました。
僕は一度沖縄でお会いしましたが、厳格でまじめなおじいちゃんという印象でした。
面白かったのが、真顔でこのみには”演劇とグラビアの才能が無い”と言っていたことです。
自分史にも事実が淡々と描かれています。
もともと片足が不自由だという身体障害を持っており、今よりも厳しい目で見られたであろう時代に図太く、そして学問に対しては知的好奇心にあふれた人生を歩まれていた事が分かります。
また、沖縄の為に何か役に立ちたいという使命感で、アメリカ領沖縄への転勤を決意。
(今で言う台湾に転勤するようなイメージでしょうか。)
今よりもインフラが発達していない時代に、医者という立場に奢らず、誰よりも行動をし続けたおじいちゃんを僕は尊敬します。
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